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イベントレポート

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2017年9月2日(土) 17:00~18:00

朴 久玲(ぱく くりょん) / 桐朋学園大学准教授

グランシップ × d-labo静岡 タイアップセミナーチャイコフスキー音楽の魅力 in d-labo静岡

今回は、11月4日にグランシップで開催される「ウラディーミル・フェドセーエフ指揮チャイコフスキー・シンフォニー・オーケストラ」を前にした、タイアップセミナー。
ロシア・モスクワ音楽院への留学経験を持つピアニスト・朴久玲先生から、ソ連崩壊からロシアへと変容を遂げた混乱期の中でのロシア留学の話、そしてチャイコフスキーを中心としたロシアの作曲家たちのお話を伺った。
チャイコフスキー国際コンクールの様子、歴代の教授の写真が飾られたモスクワ音楽院の教室の様子など、音楽ファンが喜ぶ写真を数多く紹介。また、作曲家の逸話や巨匠から受け継いだピアノ演奏法に関しても多く語られ、音楽、特にピアノに携わる人にとっては、非常に充実したセミナーとなった。

アントン・ルービンシテインが残した功績

朴先生は、音楽の名門として知られる桐朋学園へ高校、大学と通い、大学在学中の1988年に、世界3大音楽院の一つでもあるモスクワ音楽院へ留学。1年の予備科でロシア語などを学び、その後5年間の本科へ進む。当時の日本はバブル期。そして、ソ連はロシアへと変革を遂げた時代だった。
「信じられないくらい不動産が安い時代だったのでアパートを購入し、日本と行き来しながら8年ほど滞在していました。」

まずは、ロシア音楽を語るうえで外すことができない、19世紀の作曲家・ピアニスト、アントン・ルービンシテインについて、話を伺った。
アントンは、1862年にロシアで初めての音楽院となるサンクトペテルブルク音楽院を創設した人で、交響曲、協奏曲、バレエ音楽、オペラ、ソナタなど多数の曲を残している。サンクトペテルブルク音楽院では、チャイコフスキー、プロコフィエフおよびショスタコーヴィチといった名だたる音楽家を輩出している。
ベートーヴェンが1770年に生まれ、18世紀にドイツで活躍していることを考えると、19世紀に入っての音楽院創設はかなり遅いとも言える。

ロシアでは伝統を重んじており、師から習ったことを弟子に伝え、さらにその弟子も自分の教え子へと受け継いでいくのだそうだ。朴先生の師・ヴォスクレセンスキー先生も、レッスン中に「アントンは、こういっていたらしいよ」とよく話し、朴先生はさまざまな学びを得たのだとか。
「メロディというのはね、本当に深く弾かなければならない。深くのびる、やわらかい、たっぷりとした、充実した音でなければならない。そのためには、君が弾いたときに指が鍵盤の中に入って貫いて、そこからノォっと出る感じ。」
レッスンで“硬い音”が出るたびに、よくこんなふうに言われたそうだ。そして朴先生も、自分の生徒のレッスンの際にはこの台詞をよく使うという。その後、生徒のピアノの音は一瞬にして変わる。比喩はイメージを豊かにし、演奏に非常に役に立つのだ。

あるいは、こんなふうにも言われたという。
「骨がないように弾きなさい。カチカチ・タカタカ弾くのではなく、レガートで滑らかに弾く。」 ロシアのピアニズムの特徴は「まずは歌うこと」だそうだ。アントンは、こんな言葉も残している。「いかにピアノを歌わせるかに、我々は心を砕くべきだ。ヴァイオリンは弓で歌わせることができる。歌手も喉やたくさんの器官によって歌わせることができる。しかし、ピアノは時には打楽器だと言われる。それは、鍵盤を打てば常に同じ音が鳴るということを揶揄している。だから、ピアノもヴァイオリンや歌手と同じように歌えるということを、我々ピアニストは一生かけて証明しないといけない。」

ソ連崩壊を経験し、『見えないものから得る幸せ』を知る

1991年のソ連崩壊に伴い、社会や生活環境は激変した。それを目の当たりにした衝撃は忘れられないという。パン屋にパンがなくなり、砂糖やたばこは配給制に。ロシア(当時はまだソ連)に来る前の日本はちょうどバブル景気で、物が街にあふれていた。ロシアに来た朴先生は「なんてところへ来てしまったのだろう」と毎日毛布にくるまって泣いていたという。
しかし、レッスンが始まると、音楽にどっぷり浸かるようになる。ロシア人のような豊かな音を奏でたい。粗悪なピアノでも素晴らしい色彩で表現する、ロシア人のようなピアニストになりたい。朴先生はたくさんのコンサートへ足を運び、浴びるように音楽を聴いた。
ロシアの芸術の豊かさ・奥深さは音楽に留まらない。冬のロシアは、雪で白とグレーの世界に染まる。色がない日常の中、美術館へ行くとはっとするほどの色が目に染みたという。そして、本もたくさん読んだ。日本で読むと重苦しいドフトエフスキーの本も、現地で読むと、暗く張りつめた世界観が日常と一致し、雑誌感覚で気負いなく読めたそうだ。

また、ロシアのサンクトペテルブルクにあるマリインスキー劇場では、留学当時、500円程で公演を観ることができた。大晦日には必ずチャイコフスキーのバレエ組曲『くるみ割り人形』が上演される。『くるみ割り人形』はクリスマスの日の夜の話で、とてもファンタスティックな内容。美しい衣装に身を包まれた踊り子たちによるバレエは、色彩がない冬のロシアでは目に染みて、その感動は今となっても忘れられないそうだ。終演後には劇場のすぐ前の広場へ行き、鐘が鳴り花火があがるのを眺めていたという。

凍えるような冬から春になる喜び。美しい色彩。さまざまなものに触れ、感性を磨くうちに「見えないものから得る幸せ」を知ったという。物質的な不便も気にならなくなった。その後、日本に帰国し、物に溢れた街やきらびやかなデパート、過剰包装を目にした。その時、朴先生は確信した。
「『見えないものから得る幸せ』には、莫大な力がある。それさえあれば、私は生きていける。」 それが、朴先生がロシアで得たものだそうだ。朴先生は、世界中の人に『見えないものから得る幸せ』を味わってもらえたらと、後進の育成にも力を入れている。
ロシアの詩人・フョードル・チュッチェフが記した詩に次のようなものがある。「頭でロシアは分からない。」ロシアのことは、簡単には理解し得ないようだ。

多くの曲を残したチャイコフスキーと、その謎めいた死

ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーは、クラッシック音楽界でロマン派が花咲いていた1840年に、鉱山技師の息子として生まれる。ショパン30歳、シューマンも30歳、メンデルスゾーン31歳、リスト29歳、ワーグナー27歳と、天才たちが活躍した時代だった。
チャイコフスキーは法律学校へ入学し、役人となる道を進まされる。しかし、音楽家になる夢を捨てきれずに、アントンが創設したサンクトペテルブルク音楽院へ入学する。卒業後はアントンの弟、ニコライ・ルービンシテインが1866年に創設したモスクワ音楽院で、12年間教鞭をとる。その間に入学してきた生徒の中には、天才として知られる作曲家・ピアニストであるラフマニノフもいる。

チャイコフスキーは、交響曲、協奏曲、オペラ、バレエ音楽、管弦楽曲およびピアノ曲など多くの曲を残している。中でも、3大バレエ音楽である『白鳥の湖』『眠れる森の美女』『くるみ割り人形』は、タイトルはわからずとも、ほとんどの人がその曲を聴いたことがあるはずだ。それまでのバレエ音楽は、あくまでもバレエが主役で、音楽はただの伴奏でしかなかった。チャイコフスキーは、バレエ音楽を音楽だけでも成り立つように芸術作品としての価値を高めており、その功績は大きい。

チャイコフスキーにはアレクサンドラという妹がおり、ウクライナの大貴族へ嫁いでいる。チャイコフスキーは毎年ここを訪れ、たくさんの作曲をしている。中でも甥を非常にかわいがり、『子供のためのアルバム』や交響曲第6番『悲愴』を献呈している。

ここで、交響曲第6番『悲愴』の1楽章冒頭を聴く。
ファゴットや、コントラバス・ヴィオラの低弦からひっそりと物悲しい音から始まる。セミナーで冬のロシアを想像していたせいか、会場の床から冷気が迫り上がってくるような心地がした。
チャイコフスキーは、表題音楽(=プログラム音楽。名前のある音楽。)にこだわっていたが、交響曲第6番の初演の際、『悲愴』の名前は出さなかった。「聴いた人が、勝手に推測すればいい」と言っていたという。しかし、初演の評判が芳しくなく、ピアノ用に編曲しなおした。その際に『悲愴』とタイトルをつけている。
2楽章は珍しい5拍子のワルツ、3楽章はフィナーレを思わされるような新鮮で、生きる力に満ちたマーチになっているが、終楽章で心をえぐられるような絶望のテーマが不意に現われ、暗い鎮魂歌で終わる。これは、棺を持って歩く葬送行進曲でもある。そして、チャイコフスキーは交響曲第6番の初演の9日後に急死する。

チャイコフスキーの死因は、生水を飲み、コレラにかかったためというのが通説だが、貴族の甥との同性愛を咎(とが)められ、自殺を強要されたなどの説もある。生水を飲めばコレラになるのは当時知られたことだったのに、敢えて生水を飲んだのが不自然だというのだ。
チャイコフスキーが亡くなった1893年は、ロマン派の音楽が終わる時だった。プロコフィエフ、ショスタコーヴィチ、ドビュッシー、ラヴェルといった近現代の音楽が始まり、チャイコフスキーはロマン派の音楽の最後の人となった。朴先生は、「チャイコフスキーの謎めいた死は、ロマン派らしいものなのかもしれない」と話し、セミナーを締めくくった。
文・河田 良子

講師紹介

朴 久玲(ぱく くりょん)
朴 久玲(ぱく くりょん)
桐朋学園大学准教授
東京生まれ。桐朋女子高等学校音楽科を経て、桐朋学園大学在学中に、モスクワ音楽院留学。本科を経て、同大学院を卒業。矢浪絢子、江戸弘子、M・ヴォスクレセンスキー氏に師事。マリア・カナルス国際コンクール(スペイン)特別賞、ハン・ロマンソン国際コンクール(韓国)3位、ポントワーズ国際コンクール(フランス)優勝。第11回村松賞受賞。横浜国際招待、オーベールシュールオワーズ国際音楽祭(フランス)ほか、ロシア各地の音楽フェスティバルにて演奏。クラスナヤルスク交響楽団、エカテリンブルク交響楽団(ロシア)、ドネツク交響楽団(ウクライナ)、プチョン交響楽団(韓国)、NTT交響楽団(日本)などと共演。また室内楽では、藤原真理、A・クニャーゼフと共演。全日本学生音楽コンクールなど、多くのコンクールで審査員を務める。